2011年4月11日月曜日

三島剣連のあゆみ


当地域は、室町時代に一刀流の始祖でありました「伊藤一刀斎景久」が、八丈島より伊東に渡り、そこから三嶋大社に百ヶ日の願掛け参籠して、剣の奥義を授かったという伝承に始まります。

その後、戦国時代や武家社会の徳川時代を経て、明治・大正・昭和初期、また第二次世界大戦敗戦まで、諸先達が剣の道を通じ人間形成の基本理念を伝えてきました。

こうした時代の背景には、いわゆる当時の町道場はもとより、近代社会に入って警察剣道・軍隊剣道や旧制中学剣道などがその役割を果し、当地域に於いては三島商業学校の全盛期、韮山中学校の全国大会準優勝などの輝かしい活躍に、その一端を見ることができます。
このような時代の流れの中で、当地にも青少年剣道の指導場としての「石井道場」の開設など、数々の剣道を知ることができます。しかし、誠に残念な事ですが、終戦や剣道禁止時代にあって多くの資料が散逸し、現在正確を期することの難しさを皆様にはご理解くださいまして、前述が長くなりましたが、「本連盟のあゆみ」としては、山形先生が筆稿してくださった三島市体育協会記念史や東レ㈱剣道部史などから引用し、連盟発足より今日までの概略を記述させて戴きます。

昭和20年8月15日
敗戦と同時に、連合軍指令部(GHQ)により武道(柔道.剣道.弓道)は一切禁止され、組織は解散を 命ぜられた。その後柔道、弓道は再出発を許可されたが、剣道は戦時中の国家主義の首謀とされ、他の武道よりはるかに厳しい監視を受け、長い間日陰の憂き目 をみることになった。

昭和24・5頃より
禁止された剣道を何とか復活させたいという願望が実り、剣道は新しい純然たるスポーツに変わった「撓(しない)競技」としてその芽を吹き返したのである。
三島でも三島市及び周辺に於いて、同好の士が集まり、「撓(しない)競技」の練習を始めたが、「撓(しない)競技」の方法は①白の体操ズボン姿で、②限ら れたコートの中で、③時間制限を取り入れ、④審判も紅白の旗を使った三審法により、⑤体当たり、足がらみ禁止、⑥「袋竹刀」を使い「竹刀」が打突部に触れ れば得点という全く以前の剣道とは似ても非なる競技となってしまった。
この様な試合方法では、荒稽古で鍛えられた荒武者には満足するわけがなく、結局「撓(しない)競技」練習に名を借りて中身は本来の剣道を楽しむのが常であった。

昭和27年
「三島剣友会」結成(会長曽根萬兵衛)

昭和28年
「三島剣道連盟」発足(会長深谷慶治〉
同時に「静岡県剣道連盟」「三島市体育協会」に加入

同年8月
三嶋大社例大祭に、発足記念大会として、沼津市剣道連盟を招待し.大社舞殿において奉納交歓剣道大会を開催。

同年11月
三島市スポーツ祭剣道大会を開催した。

昭和30年頃
開業内科医師である深谷慶治会長が、診療所兼住宅を移転新築し、病室を廃し床を張り替えて剣道場とし、少年剣士の指導につとめ、後年多くの名剣士を育て上げたことを特筆したい。

昭和32年
第12回国民体育大会が静岡県で開催され、剣道競技大会は三島南高等学校体育館を会場に挙行された。
出場選手中三島市からは、高校男子の部に勝又衛(三島南高校〉、撓(しない)競技の部に石垣芳之助(三島剣連〉が選ばれ大活躍した。
静岡県チームは各部が優秀な成績で、種目の総合優勝を成し遂げた。この大会に地元剣連として全会員一丸となって、市当局、県剣に協力し、その基金調達、設営、運営に貢献して大会を大成功裏に収めるための裏方をつとめ上げた。

昭和37年
三島南高校剣道部OBであります石垣金吾二代会長より、校内大会にでも使って下さいと純銀製優勝杯が寄贈されましたが、相原先生、鈴木幸夫さんが協議した結果、近隣の高校に呼び掛け「第1回石垣杯争奪高校剣道大会」を三島南高校体育館を会場として開催した。
当初参加校は10校に満たなかったが、回を重ねるごとに有名になり、第20回大会には県内各地から申込が増え、48校となった。
第1回以来当剣連と三島南高校剣道OB源流会の共同主催で運営され、第2回より毎年2月23日の祝日を開催日と定めた。
第21回より更なる内容の充実した恒久的な永続を願って主催を(社)静岡県剣道連盟と静岡新聞社、SBS静岡放送に移管し、本連盟が主管を担当することになり、名称を「静岡県高等学校剣道選手権大会」とした。
第22回大会から、県内を東中西部地区に分け、各地区代表男女それぞれ16校とし合計96校となり、県下最大の大会に発展した。
会場は、第1回から第21回までは三島南高体育館で、第22回から第44回までは三島市民体育館で行い、第45回の平成14年からは、県立武道館で行っている。
平成14年より全面的な運営を(社)静岡県剣道連盟に移管することとなった。

昭和40年後半になると、
剣道人口の増加が始まり、特に少年剣道教室が発足し、三島市内で4か所、田方郡下でも10か所のスポーツ少年団が誕生し、隆盛を究めた。
そこで.当連盟主催による、初心者に対する剣道の基本指導と、少年指導方法の統一化を図る目的で、少年剣道教室、中学生、高校生、一般初心者と各団体の指導者を対象にした講習会を実施することにした。開催日は夏休みの一日を利用し少年剣道錬成大会を開催、併せて二級審査を行っている。以来毎年実施している。

昭和28年三島剣道連盟発足と同時に、三島市スポーツ祭剣道大会を開催した。以後、毎年開催しているが、剣道入口も少なく一般男子のみの試合であり、剣道を楽しみながらの大会であった。
昭和40年代後半になると、各地区に剣道教室が設立され、少年団、中学校、高校一般と幅広く出場者が集まった。
昭和60年頃、石垣会長より、「少年剣道は、基本を重視した技の指導が将来に向けて必要ではないか」との提言があり、理事会で協議した結果、小学生の試合は、県剣連で実施している基本技の「切り返し」「打ち込み」で試合を判定する錬成会方式を採用することになった。その結果、基本技を重視して稽古している少年団が優勝するようになり、成果が上がった。しかし最近になってまた元の試合方法に戻ってしまっている。

昭和57年より
会員の技術向上と相互の親睦をはかるため、最も気象条件の厳しい1月下旬から2月上旬を選んで1泊2日の日程で県外武者修行を敢行している。
毎回40名前後の定員はすぐに満員となる程の人気で、以来1回も休むことなく続行している。
また、当地は立地条件に恵まれている関係で、毎年各地より剣道団体の来島が相次ぎ、親善交換稽古を行っており、会員の技術向上に大いに役立っている。
三島剣連武者修行記録

昭和61年より
当連盟主催による、三島田方地区中学校剣道大会を開催している。
これは、当連盟に加入している中学校の剣道技術の向上を図るとともに学校聞及び生徒間の交流を深めるために開催するもので、毎年5月下旬から6月上旬開催し、中体連大会の前哨戦として各校とも厳しい練習を積んで参加している。